現実とベッドの狭間

授業をすることとTRPGのGMをすることは似ている、そういうことを言いたい

選挙の度に思い出すこと

衆議院議員選挙である。

丁度中学三年生は選挙や政治について学んでいる時期で、タイムリーなのは良いことだ。少しくらいは学習内容に興味も湧こうというもの。と信じたい。

 

三年前に三年生を受け持ったときも、公民的分野の学習と選挙が重なった。

義務教育では特定の政治的思想を教えることは禁じられているが、やはり生の教材を使いたくて、その時のマニフェスト一覧を生徒に配布した。そして自分ならどの党に投票したいか考えさせた。

繰り返すが特定の政治的思想を押し付けてはいけないので、考えさせるだけに留め、生徒間で共有もさせなかったし、評価の対象ともしなかった。真にフラットな目で見れる自信が、当時は全く無かったからだ。なら課題を与えるなという話であって、思えば全くその通りなのだが、まあ考えさせたいというこちらのエゴだ。

 

その時にある生徒が言った言葉を、選挙の度に思い出す。

 

「ちゃんと読んで考えたんだけど、大人たちはみんなこんなに真剣に考えてないだろうし、棄権する人も多いから、馬鹿馬鹿しくなって途中でやめました」

 

詳細な部分は違うかもしれないが、概ねこのような内容だった。

社会科は得意な生徒だった。意欲もあったし頭も良かった。それなのに、と言うべきか、だからこそ、と言うべきか。その結論に衝撃を受けたし、未だに思い出す。

そうでない大人も多い、という反論は言い訳でしかない。少なくとも当時中学三年生だったその生徒の目には、世界はそんな風に映っていたのだ。否定することは出来なかった。

 

歴史というのはいつだって、よく考えてもいない民衆が、よく考えもしないままに動かしてきたものだ、という歴史観を、私自身はもっている。それでいいと思っている。

しかしそう教えてしまうのはどうも本末転倒な気がして、今も答えに迷っている。

 

確かなことはどんなに民衆が愚劣でも、主権の行使は行うべきであるということだ。

未来の主権者を育てるために、大人よ、投票に行ってくれ。

 

 

 

(台風にはくれぐれもお気をつけて。)

何かを書かねば生きられぬという強迫観念

に、突き動かされて生きている。

 

体育大会だとか、部活の試合だとか、中間テストだとか、あと相変わらずの研修だとかに追い回されて、ブログというある程度の長文ツールをコンスタントに活用することの難しさを感じている。やはりTwitterと違って体力がいる。

書きたいことがないわけではないし、このブログを作った目的も未だ達せていないので、書きたい気持ちはある。だが指がどうしても、ホーム画面のアイコンをタップしない。編集画面を開いてたかが数百、数千の文字を連ねる、その億劫さに勝てない。

 

それでも私は、自分が何かを書かねば生きられぬ、という強迫観念をもっている。

 

小1の頃から作文は得意だった。宿題の日記をとんでもない量書くのが特技だった。いい迷惑だ。

小4から物語を書いた。小5から二次創作にも手を出した。探せば多分、当時のノートが残っている。

ブログを始めたのは多分中2か中3くらいで、Twitterを始めたのは大学生だ。アドレスを変えツールを変えアカウントを変え、それは今でも続いている。

働き出した後は、先述のように億劫になって、Twitterに一言二言呟くだけ、という日も儘ある。

けれど私は就職してから今までで数百枚の学級通信を書いた。数千枚の授業プリントにコメントも書いた。作文や一言日記への返事も、累積でいえばかなりの分量になるだろう。

 

毎日毎日毎日毎日、絶えず何かを書き連ねている。

私の思いを、私の言葉で、私の文章で。

今一つ才覚が無いのはとうに知っているが、特に磨く気もない。

読んでもらえることは嬉しいけれど、それは副次的な目的でしかない。

ただ、書かなければ死ぬのだとでも言うように、毎日毎日毎日毎日。

 

そして今日もこの記事を書いている。

文章を書くために文章を書いている。

 

 

 

昨日食べた味噌鍋の後の雑炊のような、良いシメを考えているのだが、特に思い付かない。

なのでこのまま記事を終える。

今日はラーメンが食べたい。

「やれやれ」と僕は言った。

という一文だけで村上春樹だと理解できてしまう辺りが、彼の凄いところだ。作品に賛否両論数あれど、ストーリーではなく文体がそれだけ知れ渡っている作家はなかなかいない、その点だけでも彼は凄いのだなと思う。

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み終わった。

本屋の新刊コーナーばかり見ているタイプの乱読家なので、自分が生まれるより前の本を手に取るのは久々だった。生まれるより前の作品はよく読むけれど、大概は国語便覧に乗っているような作家の総集編とかオムニバスとかそういうもので、初版発行年が昭和の本は久々だった。だから何だということは特にない。

 

村上春樹が取り立てて好きということはなく、初めて読んだのは1Q84の文庫版だし、かの有名な『ノルウェイの森』も未読だ。『騎士団長殺し』もまだ読んでいない。これは単純にハードカバーの本が嫌いだからだ。ポケットに入らない。しかし実際ポケットに入れることはあまり多くなく、鞄の邪魔にならなければ良いので、新書は普通に買う。京極夏彦だけは別だ。

タイトルがずっと気になっていて、漸く手に取ることが出来たのだが、なるほど世界の終りだった。ハードボイルドなワンダーランドだったかは微妙だけれど、概ね満足した。

 

繰り返すが取り立てて氏の作品が好きなわけではない。『女のいない男たち』を昨年あたりに読んで、本当にこれが2010年代の作品なのか? と目を疑ったりもした。

だけど本作は面白かった。二つの場面が同時に進行する作品によく有るどんでん返し、離ればなれに見えた線が面として繋がる瞬間の快感、そういうものは無かったけれど、接点がじわりと共鳴して滲み出るような感覚は嫌いじゃない。そのキイとなる曲には共感出来なかったけれど、あの場面のBGMとしては有りかもしれない。残念ながら好きな音楽は低音域のよく響くクラシックか、高音域の鮮やかなシンフォニックメタルなので、世代の問題ではなく好みの問題である。

 

もう少し具体的に好きな点を挙げると、世界の終り編の情景描写と、終盤のモノローグの2つに絞られる。

下巻234ページにこんな一節があった。

 

私自身はどこにも行かない。私自身はそこにいて、いつも私が戻ってくるのを待っているのだ。

人はそれを絶望と呼ばねばならないのだろうか?

 

やけに印象的だった。何を感じたかを語るのは野暮だし、どうでもいいプライベートに片足を突っ込むのでここでは語らない。

言いたいことはこの人生観がそれなりに好みだということだけだ。氏の考える世界の終りがこういうものかと、読んでいて納得もした。

 

そういう訳で面白かったので、ここに書き留めておく。

 

問題はこの主人公が些か酒を飲みすぎるきらいがあって(そして飲酒運転を多くする、この辺りは時代だったのだなと思う)、女好きに過ぎるきらいがあって(大体いつもそうだという指摘には返す言葉がない)、つまりは中学生に素直に勧めづらいということだ。

勤務先の図書館には『海辺のカフカ』だけが置いてある。悪くない判断だと思う。

 

ブランデンブルグを聴きながら煙草を一本吸って、今夜は寝ることにする。

 

 

追記

ブランデンブルグはそこまで好みの曲ではないのだが、バッハは無条件で好きなのだ。

 

授業をすることとTRPGのGMをすることは似ている

そういうことを言いたい。

 

授業案とはシナリオである。

印象的なオープニングでプレイヤーのモチベーションを引き出し、積極的に調べたり考えたりしていく中で、何かが分かるようにしておく。

自ら動かぬ消極的なプレイヤーに慈悲はないが、システム初心者へのアシストは必要だ。これを怠ると保護者からクレームが来る。

必要な情報が揃ったり、ダンジョンの最下層に辿り着いたりしたところで、物語はクライマックスを迎える。プレイヤーが必殺技をキメたり、かっこいい台詞を並べたりする。上手く回せばクリティカルもばんばん出てくる。逆にそういう場がないと、プレイヤーがどんどんNPC化していく。それではつまらない。

そしてその日の主人公が物語のトドメとなるアクションを起こしたところで、クライマックスが終わる。たまに自分が主人公だということを忘れているPC1とかもいるので、さりげなく声をかけたい。

エンディングは短くていい。長いとダレる。戦利品もざっと確認するに留めて、細かい確認は後にする。あとGMの狙った方向に無理矢理誘導するよりは、その日の総括に留めた方がましだ。

 

こういう簡単なシナリオを、ご丁寧にワードやエクセルで書き起こすと、指導案になる。本にしてコミケで売ってもいいと思う。言い値で買う。

 

ところで言い訳になるが、実際問題たったの50分かそこらで、中身のあるシナリオを回すのは無理だ。リプレイを読み返すにすら足りないかもしれない。

だから現実的には、2時間以上かけてこのようなシナリオをプレイしていくことになる。故に、1時間ずっと情報を集め続けるとか、1時間ずっとパーティ内で方針について揉め続けるとか、そういう日もある。仕方ない。時間は有限なのだ。

ただし1時間ずっとGMが設定や情報を喋り続ける、そういうのはよくない。「長話で有名な『龍の竪琴亭』の爺さんだって、エールも呑まずにこんなに喋り続けるこたぁしなかったぜ」などと言われる羽目になる。エールを呑むか話を止めるかの二択だが、選択の余地はない。

何が言いたいかというと単元はキャンペーンだ。もっと言うと3年間の学習内容は丸々、超遠大なキャンペーンだ。そういう話もいつかしたい。

 

なお学習指導要領はルールブックなので、きちんと読んだ方がいい。GMはゴールデン・ルールだが、あまり乱発するとプレイヤーはシステムの意義や良さを見失う。あとやっぱり保護者からクレームが来る

 

そんな気分で実習生の頃から指導案を書いてきた。GMの腕が上がったかどうかは不明だ。

 

ちなみに今、我が愛しき教え子たちの間ではネクロニカが流行っているようで、指導案なんか放り出して、そっちのプレイヤーになりたいのが現状である。研修さえなければ……こんなもの……!